1995年阪神淡路大震災で被災した神戸で翻訳ボランティアを開始した私たちの活動。15年以上経った今でも言語バリアに悩む在住外国人は後を絶ちません。
2009年は、新型インフルエンザが世界中で猛威をふるい、日本でも5月に発症が確認され、
発症者が住んでいる地域から順に緊急メッセージが出されました。この情報は、
ほとんどの都道府県でいち早く多言語化され、私たちも翻訳という形で情報提供に協力をしました。
15年前の阪神・淡路大震災で頃と比べると、その多言語対応はずいぶんと改善されたと言えます。 小学校の就学案内、定額給付金のお知らせ、ごみのルールのことなど、多くの情報が数言語程度に翻訳されていることも、 あまりめずらしくなくなってきました。
それでも、市区町村役所の窓口、医療機関、小・中学校の教育現場などではまだまだ言葉のバリアによって 意思疎通がうまくとれない場合がたくさんあります。この意思疎通がとれないという現状を、 外国出身の住民自身の自助努力による日本語の習得ということだけで解決するという考え方でいいのでしょうか?
コミュニケーションのためのふたつの道筋~『日本語を習得する必要性』と『自分の母語で情報を得る権利』~
まだ日本語の理解の不十分な住民にとって、日本社会で暮らすことはハンディを伴うものです。
日本で生活をするために日本語は、コミュニケーションの道具としてもちろん習得することが必要です。
しかし、情報を得たり、コミュニケーションをとるための、その社会で使われている言葉が大切であるとともに、 生まれ育ってから使ってきた母語も、それによって思考が組み立てられ、自分を一番表現できる大切な言葉でもあります。 自分の母語で話すことによって、安心感を得てストレス解消にもなる場合があります。
母語以外の習得には誰でも時間がかかります。さまざまな背景や目的があって日本で暮らしている多くの人たちは、 日本語を十分習得してから日本に来ているわけではないでしょう。この人たちが日本語を習得するまでの間、 大切な情報を伝えるためには、できるだけ多くの言語にして伝えていくのは、受け入れた社会の責任でもあります。
さまざまな背景で地球上の多くの人が移動をして暮らすグローバルな社会において、どのような環境であっても 人間らしく暮らすためには、その社会で使われている言葉を習得することは、義務でもあり権利であると言えます。 そしてまた、自分の言葉で情報を得たり表現をすることも、同様なのではないでしょうか? 言葉において、このふたつの道筋を考えられている社会は、とても民主的で成熟した社会で、 すべての住民にとって暮らしやすい豊かな社会にちがいありません。

