世界コミュニティラジオ放送連盟(AMARC)の日本協議会が2007年6月23日に誕生しました。
世界の各地で活動する「コミュニティが所有、運営し、コミュニティの人々が参加する 非営利型のラジオ局」との繋がりを力に、コミュニティの課題解決につとめていくことが活動の目的です。


ハイチとカトリック教会、そしてラジオ局(被災地レポート4)
繰り返しなりますが、ハイチの地震被害は想像を絶するほどの規模です。
全壊した大統領府とカテドラル(大聖堂)に行きました。
ハイチのカトリック教会大司教さんはここでなくなりました。
ハイチは人口の6割がカトリック信徒で、地縁組織がないため、
コミュニティにおいてカトリック教会が果たす役割は非常に大きいものがあります。
地震からのコミュニティ再建は教会の存在抜きには考えられません。
今回の地震で相当数の教会が全壊してしまいましたが、日曜日には瓦礫の前や空き地でミサが開かれ、たくさんの信徒が集っています。

先週末にカリタス・ハイチ代表のサージ司祭に会いました。
日本を出発する直前に神田裕神父(FMわぃわぃ会長)にカリタス・ジャパン経由で紹介メールを入れてもらっていたのです。
欧米を中心にそれぞれの国のカリタスが直接、支援に入っていて、
それをコーディネートする役割をカリタス・ハイチが果たしています。
5月中旬までに緊急活動が終わり、次は11月までの救援期の活動に入るそうです。

カリタス・ジャパンは現地での直接支援はせずに、
カリタス・インターナショナルに日本で集めた募金を送っています。
サージ司祭にそう伝えると
「直接、カリタス・ハイチと活動ができるので。もし可能になったらいつでも連絡をください、と伝えてください」と私の目を見て、ゆっくり、そして力づよく答えが返ってきました。

サージ司祭は、すごい大きな執務室のこれまた大きな机の向こうで、
こちらの要請に迅速に電話で対応して、いろいろな方を紹介してくれました。
その中の一人が、コミュニケーション担当のジーン神父さんです。
この神父さんは、とっても気さくでフットワークが軽くて一緒に町を歩いていても、
いろいろな人に笑顔で声をかけて、車を運転して知人をみつけると、
途中まで乗って行かないかと笑顔で誘います。
なんか、ハイチの神田神父さんみたいで、非常に親しみを持てました。
カトリックのラジオ局の代表もやっているので、尚更です。
AMARCハイチの代表のこともよく知っていてこの神父さんとなら何か一緒にできる感じがしました。

そのラジオ局「Radio Tele Soleil」は、地震で全壊してしまって、いまは壊れた教会の庭にある半分潰れたワゴン車中に放送機材を積んで、
その中の狭苦しい空間で朝の5時から晩の11時まで放送していました。若い放送スタッフ2人は庭でテント生活をしています。

ハイチの放送制度は、商業ラジオ、コミュニティラジオ、非業業放送の三種類あり、非商業ラジオはさらに公共ラジオと宗教ラジオに分かれます。
Radio Tele Soleilは非商業放送(宗教)のカテゴリーに分類されるカトリック教会が運営するラジオ局です。

ジーン神父さんの後をついていろいろか人を紹介してもらっていると、
たかとり救援基地時代の神田さんの姿とだぶりました。
阪神淡路大震災の被災地の神父とハイチ大地震の被災地の神父。
この二人の神父さんをなんとかしてつなぎたいと思いました。
(つづく)

ラジオ農民の声の完全復活は遠し(ハイチ地震の被災地レポートその3)
【ポルトープランス=日比野純一】


ハイチには50を超えるコミュニティラジオ局があり、
そのうちの12局が今回の地震で被災しました。
もっとも大きな被害を受けたのは、CODEや日赤など
いくつかの日本の団体が活動している激震地のレオガンから
山の中に1時間ほど車でいったフォンドワ村にある「農民の声」ラジオです。

フォンドワ村も他のハイチの農村と同様に、電気も水道もありません。
村の女性たちは朝起きると、大きなポリバケツとポリタンクをいくつかもって
1〜2キロ先の谷底の水汲み場まで歩いていき、
水を汲み終えると大きなバケツは頭にのせ、
両手に小さなはボリタンクをもって、
すべり落ちそうな急な道を尾根まで上がり、
さらに歩いて家まで帰っていきます。
2時間は有にかかる重労働です。
これを来る日も来る日も繰り返さないと生きていけません。
でも、その水だって決して浄化されているわけではありません。

フォンドワ村の夜は月灯り以外の光がなく、ほんとうに真っ暗です。
村のコミュニティセンターにだけ発電機と太陽光発電パネルがあり、

暗い蛍光灯がぽつんぽつんと灯っています。
もちろんテレビのある家など一件もなく、
ラジオだけが村人の情報源かつ娯楽源なのです。
さらにいうと、文字を読むことができない村人も少なくなく、
なおさらラジオは生活に欠かせません。

地震の前に、フォンドワ村のコミュニティセンターには学校、病院、孤児院、コミュニティラジオがあり、その運営を住民組織「フォンドワ村農民協会」が行っていました。
そしてフォンドワ村農民協会の活動をカトリックの修道会が側面支援していました。
しかし、1月12日の地震ですべての建物が全壊し、
その下敷きになって何人もが亡くなりました。
村の公共機能は完全に消滅してしまったのです。

そのフォンドファ村のコミュニティセンターの跡地はいま、
救援活動のボランティア基地となっています。
救援ボランティアが宿泊する小屋がボランティア達の手によって数件建てられ、
多くの人たちがそこに寝泊まりして救援活動を行っています。
もちろんテントに寝泊まりしているボランティアもいます。

彼らは、瓦礫を撤去したり、仮設トイレをつくったり、ガタガタになった道を整地したり、
阪神淡路大震災時の救援ボランティアとまったく同じ活動を展開しています。
また、ブルーシートで覆っただけの臨時診療所をつくり、毎日100人以上の村人の診察を朝から夕方まで行っている若い医者、看護師たちもいます。
彼らは震災後ずっと1〜2週間交代でアメリカからきているボランティアです。
孤児のケアをしている修道会のシスター達は、ここで活動しているボランティアの
食事づくりを担当しています。
作業着の洗濯(手洗い)をひたすらしているボランティアもいます。

そうです。まるでここは、たかとり救援基地のようです。

全壊したラジオ局のスタジオは3月下旬にAMARC(世界コミュニティラジオ放送連盟)の手で仮設スタジオが作られ、かろうじて放送をできるようになりました。
しかし、機材や電気の確保が十分でなく1日1時間半しか放送ができず、
コミュニティラジオの役割を果たせていません。
屋根がトタンのため、大雨が降ると音がかき消され、放送を続けることはできません。
雨季に入ったハイチでは夏まで毎日強い雨がふります。地震の前はニュース、
保健・健康(人間だけでなく家畜も)、教育、娯楽など多様な番組を村人たちがつくって、
一日7時間も放送していました。
「一日も早く、元通りの放送を再開したい!」
それがミーティングに集まった村人たちの共通の願いです。

ラジオの再建も含めて、フォンドワ村のコミュニティセンターの再建は村人たちの願いです。フォンドワ村農民協会は救援、復興のための資金の寄付を広く募っています。

ハイチ政府や国際援助機関の手はまだこの村まで伸びていません。

(つづく)

雨季に入ったポルトーフランス(ハイチ地震の被災地レポート2)
ハイチは想像を絶する規模の被災をしていて、
首都ポルトープランスはほぼ壊滅状態です。
きっと復興には神戸の5倍以上の時間がかかると思います。
でも世界中から、富める国からも、貧しい国からも、本当に多くの人々が政府、
民間を問わず、救援・支援活動に来ていて、
きっと、いや必ず復興するという気持ちになります。
私も神戸やAMARCの活動で培った人脈をフル稼働させ、
限られた時間で精一杯の活動をしています。

ハイチに着いて3日目くらいから晩になると、とても強い雨が降り続きます。
ついに雨期に入ったようです。電気もない真っ暗な中で圧倒的な数の被災者は道ばたや空き地に張られたテントで夜を過ごしています。
さらに、ろくに道路も舗装されていなくて、そこに地震が追い打ちをかけ、朝になるとテントの周りや道路はあちこちが池のようになってしまいます。
雨季は7月まで続き、そして8月から11月まではハリケーンのシーズンが到来します。それなのに仮設住宅のメドはまだほとんどたっていないのが現状です。

でも、ハイチの人々は負けません!

私たちの通訳をずっとしてくれているマリオは、ニューヨークで高校時代を過ごした陽気なハイチ人です。


朝から晩までずっと一緒にいてくれて、いつも冗談を飛ばして僕たちを笑わせてくれます。
でも、彼は自宅も事務所も全壊し、同僚が6人亡くなったそうです。
そして奥さんと娘さんと三人で地震からずっとテント生活をしている被災者です。
そんなことを私たちにまったく感じさせないように気を使って、異国から支援に来ている私たちの手伝いを精一杯してくれる彼を見ていると、
何十年かかるかもしれないけれど。ハイチの人たちは世界中の仲間たちとともに、地震に負けずに新しい国づくりを成し遂げると思うのです。

そんな彼らを応援し続けたいです。
(つづく)

ハイチ地震の被災地レポート(1) ポルトーフランスより日比野純一
ハイチ地震で被災した仲間のコミュニティラジオを支援するために、
FMわぃわぃ代表の日比野純一が6日から国際協力NGOの
BHNテレコム支援協議会の2名のスタッフとともににハイチに滞在しています。
現地からのレポートをお読みください。



【4月6日】
ポルトープランスは阪神淡路大震災から1〜2ヶ月後の神戸のようです。
まちの至るところにテント村があります。
同時にたくさんの露天商の屋台があり、
人々の生活は切羽つまった近況状態からはやや脱した様子です。
しかし、全壊の建物だらけの町なのに、瓦礫撤去もほとんど手付かずの状態で、
倒壊した家やビルはそのままの状態で放置されています。
復興がどれだけの時間がかかるのか、それだけで察しがつきます。
午後からはAMARC(世界コミュニティラジオ放送連盟)の仲間である中間支援NGO「SAKS」のメンバーと、こちらでの活動についてのミーティングを持ちました。
7日からから首都ポルトープランスを離れて、コミュニティラジオのある農村部に行きます。

【4月7日】
7日から首都ポルトープランスを離れ、農村部の被災地に向かいました。
車窓からは、あまりに無残な状態のまま放置されている建物や
瓦礫が車道沿いに並びその合間に無数のテント村がありました。
行き交う車は、国連や援助団体の旗やマークをつけてものが
多く世界中の人々が支援に訪れていることがわかります。



神戸のNGO「海外災害援助市民センター」(CODE)が活動拠点をおいている激震地の一つ、レオガンを通過して、いくつものを山を越えてポルトープランスとは
島の反対側にあるBianetという村に向かいました。




途中、一回の昼食休憩を除いて、7時間の悪路走行でした。
道中の8割は舗装されておらず、その半分は岩がごつごつしている川底のような道で
地震の前からインフラが整備されていないことがよくわかります。
山道は、地震によって土砂崩れを越している場所が多々あり国連の重機が土砂を除いて、交通を確保してくれているのですがその最中にも土砂崩れが起き、恐る恐るの山道走行が続きました。

頭にバケツやポリタンクを乗せた女性達が道祖沿いを歩いている様子は車中から
見える当たり前の風景です。
ハイチの人々の暮らしは非常に貧しく、水道設備は主要な町を除いてはありません。
水道と同様に電気供給設備も十分に整っておらず人々は、
発電機や蓄電機を使って電気を確保しています。
机ひとつに蓄電機にコンセントをつないだ携帯電話充電屋が町には必ずあります。

ハイチでは固定電話の設備が国中を網羅しておらず携帯電話が唯一のコミュニケーション手段です。
道路、水道、電気、固定電話。日本では当たり前のインフラがここにはなく
それはハイチ政府が社会基盤を整備できていなかったことの証です。

また、国土が山がちで、カリブ海に面した地域以外は畑に恵まれず、
その沿岸部もサトウキビとバナナの畑ばかりで、
穀物の畑を見ることはありませんでした。
山間部では、非常に急な勾配の山を活用して、
猫の額にも満たない畑を耕している農夫を車から何回かみかけましたが、
とても日本の段々畑といえるものではありません。

地震はそんなハイチを襲ったのです。
(つづく)
【ハイチ地震】スタジオ全壊のコミュニティラジオが放送再開

世界コミュニティラジオ放送連盟(AMARC)のハイチ地震救援チームから、スタジオ全壊してしまった「Radio zetwal Peyisan」(日本語の意味:ラジオ 農民の星)が3月21日13時13分に放送再開したという嬉しい知らせが入ってきました。Radio zetwal Peyisanは首都のポルトープランから西に50キロメートル、山間の8000人が暮らすFondwa村にあるコミュニティラジオ局です。村人の8割以上は非常に貧しく、電話もテレビも持っておらず、ラジオから情報を得ています。しかし首都から届く広域ラジオはフランス語の番組がほとんどで、現地の言葉であるクレオール語しか話せない村人にはRadio zetwal Peyisanが唯一のメディアでした。地震から70日、村人の手にラジオが戻ってきました。嬉しいです! 全壊したコミュニティラジオ局12局のうち、まず1局目が再建です。引き続きAMARC救援隊の活動は続きます。(写真は、新しい放送スタジオとアンテナを設置するAMARC救援隊)

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